十牛図(授戒編)⑦
十牛図の七 忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)
家に帰った童子は、すっかり牛の事は忘れて、家の前でうたた寝をしています。自分だけで、ゆったりとくつろぎ、牛の事も忘れかけています。
真の自己や悟りは自らの中にあった事に気づいているのです。
厳しい修行の末に得た悟りさえ、消えている状態です。
これは何を意味するのでしょうか。
実は自分は悟りを得たという考えを持つ事が、禅ではまだ迷いの境地なのです。
悟るという意識にとらわれず、本来の自己に成り切っている状態が、この図の意味になります。
坐禅を「安楽の法門」ともいうのは、坐禅を通して何ものにもとらわれない本来の自己になれるからです。迷うはずのない仏は悟る必要がありません。悟ったという気持ちも捨て去るのです。
悟りを求めた修行も、終われば悟りの事を忘れます。自分は悟った事を意識しないところに、本当の悟りはあります。不安も安心もない、すべては自分の心次第。
普段と何も変わらないところがそのまま、悟りの世界なのです。
修行前も終わってからも、朝が来れば起き、顔を洗い、食事をし、しないといけない事をする。この日々の生活に変わりはないのです。
何事にも逃げ回っているよりは、自分で納得してぶつかっていく方が、心は安定してきます。なんの心の支えもなく、ただ喘ぎながら苦労しているよりは、自分で納得している方が、同じく喘いでいても支えがあります。こういう生き方を仏教では「安心(あんじん)」といいます。
中国の禅宗の開祖菩提達磨さまは、六世紀初めに中国に入ります。
お釈迦さまから千年も後ですから、中国にはすでに多くの仏教の宗派がありましたが、禅のすぐれた教えは迎えられ、今日に至る基礎を築きます。
達磨さまは、「二入四行論」という、悟りを得るには二つの方法と、四つの修行法があると教えています。
二つの方法とは、経典から学ぶ「理入」と、実践から入り、修行で悟る「行入」です。行入は、四つの行から出来ています。
一番目が「報冤行」といい、冤はうらみとかあだの意味ですから、うらみに報いる行、つまり、うらみがあっても耐える行です。
感情で一番根強いのがうらみです。怒りは時間が癒しますが、うらみは時間とともに根を張ります。この行が牛の背の童子のような、ゆったりした心になる為の最初の修行です。
二番目の行が「縁」の考え方で「随縁行」といいます。随は従うという意味ですから、「今の自分はすべて縁によって生きている。いい縁もあれば、悪い縁もあるが、縁の世界からは抜け出せない。だから目先の事にとらわれず、ゆったりと自然な気持ちで生きる」という修行をいいます。
三番目は、何に対しても執着しない「無所求行」。
四番目が、正しい教えを実践する「称法行」という修行になります。
では、達磨さまは、こうした行を積み重ねて、何を求めたのでしょう。
それはお釈迦さまが得た悟りなのです。悟りを経典よりも修行の力によって得ようとしたのです。
ですから禅は自力中心といわれますが、この自力エネルギーが足らずに、自分の状況に不満を持ちやすいのが私たちなのです。